1958年3月15日ベイリーの誕生100年にちなんでガーデニングと園芸の記念切手が発行されました。
園芸家リバティ・ハイド・ベイリーは1858年3月15日、ミシガン州サウスヘイブンで生まれました。
ベイリーは、リンゴの栽培で有名な農園で育ち、ベイリーが特に得意としたのは接ぎ木で、ベイリーは近隣の農家の植物の世話を頼まれるほどでした。ベイリーは幼い頃から植物や読書に興味をもっていました。分類学や植物分類の勉強を楽しんでいた。 1882年にミシガン農業大学を卒業すると、植物学者として名高いエイサ・グレイに雇われ、彼の助手として働くことになりました。2年間グレイのもとで働いた後、ベイリーがミシガン農業大学に戻り、園芸・造園科の教授と学科長に就任しました。これはアメリカで最初の園芸学部でした。
そして1888年、ベイリーはニューヨーク州に移り、コーネル大学の実践・実験園芸科の学科長に就任しました。1893年には早くも、コーネル大学で州が支援する農業プログラムの構想を推進しました。アイザック・ロバーツ教授とともに、講義や実演を行い、農家を訪問して問題解決の手助けをすることで、この構想への支持を得ました。1903年、ベイリーは農業大学の設立をニューヨーク州に陳情し、1903年から1913年までニューヨーク州立農業大学の初代学長となりました。
ベイリーは1903年に設立されたアメリカ園芸学会の設立者のひとりでした。彼はまた、自然研究運動の先頭に立ち、研究が身近で、わかりやすいものにしようとしました。 彼は子供たちに「道具や土や植物や問題と取り組むこと」を奨励しました。 ベイリーが設立したジュニア・ナチュラリスト・クラブは、のちの4-H運動の基礎となりました。 また、1908年には「地方の生活に関する国家委員会」の委員長を務めました。ベイリー博士の調査は、郵便小包事業の開始や農村の電化につながりました。
ベイリーは1913年にコーネル大学を退職し、執筆活動や社会的・政治的問題への取り組みに時間を割くようになりました。また、cultivar(栽培品種)、cultigen(栽培種)、indigen(固有種)という造語を作りました。
1954年12月25日、ベイリーが死去しました。1958年からアメリカ園芸協会が優秀な園芸家に対してリバティ・ハイド・ベイリー賞を授与しています。