Samuel Gompers
アメリカの労働組合指導者サミュエル・ゴンパーズは、1850年1月27日、イギリスのロンドンで誕生した。
ゴンパーズは、6歳から10歳の誕生日の直前まで、ロンドンのユダヤ人学校に通っていた。両親は、家計のためゴンパーズの通学をやめさせて、葉巻職人に弟子入りさせた。 ゴンパーズは、夜間学校で勉強を続けた。
1863年、一家はアメリカに移住し、マンハッタンに住んだ。父親が葉巻を作るのを手伝ったり、友人たちとディベート・クラブを作ったりして、多くの時間を過ごした。14歳のとき、ゴンパーズは葉巻製造者組合に加入した。
1873年、ゴンパーズはデイヴィッド・ハッシュ・アンド・カンパニーで葉巻製造の仕事を引き受けたが、そこは「最も熟練した職人のみが雇われた高級店」であったと述べている。この仕事は、彼の人生において最も重要な変化の一つであったと考えられている。そこで働いていた時、国際労働者協会の元秘書、カール・ローレルと出会った。ローレルはゴンパーズに、社会主義の政治運動ではなく、労働運動に力を入れるように勧めた。
1875年、ゴンパーズは葉巻製造者組合第144支部の会長に選出された。2年後、組合は財政危機により崩壊寸前となった。ゴンパーズは、組合の会費を徴収し、会費を払っている組合員に休業手当、疾病手当、死亡手当を支給する制度で、葉巻製造者組合の再建に貢献した。彼は、「この組織の主要な目的の一つは、最低賃金の労働者を最高の水準に引き上げることである」と述べた。ゴンパーズはその後、1886年に葉巻製造者組合の第二副会長、1896年には第一副会長を務め、その地位は亡くなるまで継続された。
ゴンパーズは、1881年に労働組合連盟の設立を支援し、同様の目的を持つ組合の結集に貢献した。5年後、この団体はアメリカ労働総同盟(AFL)に改組され、ゴンパーズはその会長に就任した。その後、ゴンパーズが亡くなるまでの間、1回を除いて毎年AFLの会長に再選された。労働者の賃金の引き上げ、労働時間の短縮、労働条件の改善などが主な目的であった。
1890年代には、ゴンパーズは組織を国際的に拡大することに努めた。世紀末になると、AFLはカナダの組合運動の主要な勢力となった。ゴンパーズは、第一次世界大戦の参戦を強く支持し、ウッドロウ・ウィルソン大統領から国防評議会の会長に任命され、同評議会では労働諮問委員会の委員長を務めた。 戦後はパリ講和会議に労働問題の顧問として出席した。
ゴンパーズは晩年、多くの健康問題に悩まされ、1924年12月13日、テキサス州サンアントニオで死去した。