Flags of overrun countries
1943年初頭、ニューヨークで会議が開かれ、第二次世界大戦で枢軸国に制圧された国々を称える切手に関する詳細が議論された。この会議で、アメリカン・バンク・ノート社が、1回の作業でさまざまな国の国旗を実際の色で印刷できる設備を持っていることから、これらの切手の製造を委託することが初めて発表された。当時、国立印刷局は、他の仕事に追われていて、このような問題に割く時間がなく、しかも、それぞれの国旗の実際の色に印刷を行うための設備もなかった。
この会議で、切手のサイズを通常のものより大きくすることが強く要請され、その結果、国旗を見事に飾ることができる記念切手のサイズになった。また、切手の額面についても、できるだけ広く配布するために3セントにするべきだという意見と、外国に行く郵便物に使われることを考慮して5セントにするべきだという意見とがあり、この後者の考え方が優勢だった。色については、外枠は黒か、少なくとも紫か青の非常に暗い色にすべきだと、デザイナーたちは強く感じていた。そうすれば、境界線が淡い色合いの場合よりも、効果的に旗を目立たせることができる。
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、1942年の後半にこのシリーズのデザインを提案したと言われている。大統領から提案された基本デザインに沿って、アメリカン・バンクノート社のスタッフがデザインを作成した。当初提出された切手の原案には、「United States Postage」の行の左側に1776年、右側に1942年という年号が描かれていたが、これらの年号は、後に削除された。また、当初のデザインには、不死鳥の頭の上にラテン語で「Ne pereat(滅びないように)」という文字が描かれていた。この言葉も、最終デザインの発表前に削除された。
ポーランド切手のモデルは、1943年3月21日に大統領によって承認された。1943年5月11日の朝刊に掲載されたプレスリリースでは、ヨーロッパの11か国の切手が順次発行されることが発表された。
1943年5月11日に発表された郵政省の発表では、被蹂躙国家を称える11枚の切手のシリーズが認可されたが、称えるべき国のリストにデンマークは含まれていなかった。5月17日、コロラド州デンバーに住むデンマーク系の切手商として有名だったA・E・ペイドは、郵政長官に手紙を書き、アメリカにはデンマーク系の何十万人もの善良な国民がおり、このシリーズにデンマークが含まれないことは、深く失望していることを説明した。彼は、郵政長官に自分の決定を再考し、デンマークをリストに加えるよう強く要請した。結果、1943年6月28日の発表でデンマークがシリーズに追加された。
ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統が発表した1943年11月のカイロ宣言は、「朝鮮」の自由と独立が明記された。3人の世界的リーダーによる上記の声明と、韓国が日本の支配下に置かれた最初の独立国であるということにより、郵政省は被蹂躙国家の国旗シリーズに朝鮮を追加することになった。1944年4月13日、郵政省は、韓国称える新しい切手を発行することを発表し、1944年8月15日、「朝鮮」を称える切手は5セント建てで、1944年11月2日に発売されることを発表した。中央の題材は、朝鮮の国旗が描かれ、縁取りはヨーロッパ12か国の切手と同じデザインと色彩になるというものだった。