ネリー・ブライというペンネームで知られるエリザベス・コクラン・シーマン(1864年5月5日 – 1922年1月27日)は、アメリカのジャーナリスト、実業家、発明家、慈善家であり、ジュール・ベルヌの小説に倣って72日間で世界一周する記録を達成し、精神病院の内部から潜入して報告する潜入記事で広く知られています。
1887年彼女は、ジョセフ・ピューリッツァーの新聞社「ニューヨーク・ワールド」の記者になり、ブラックウェルズ島(現在のルーズベルト島)の女性精神病院の残虐性と放置に関する報告を調査するため、狂気のふりをする潜入調査を引き受けました。
精神病院に収容されたブライは、その悲惨な状況を身をもって体験しました。彼女の報告は後に『Ten Days in a Mad-House』として書籍化され、センセーションを巻き起こし、精神病院に改革を促し、彼女に永続的な名声をもたらしました。また、この取材は潜入取材のさきがけとなりました。
1888年、ブライはニューヨーク・ワールド紙の編集者に世界一周の旅を提案し、ヴェルヌの小説「八十日間世界一周」(1873年)を初めて現実に試みることに挑みました。1年後の1889年11月14日、ハンブルグ・アメリカラインの蒸気船オーガスタ・ヴィクトリア号に乗り込み、約4万キロの旅に出ることになります。当初はニューヨークの新聞『コスモポリタン』の記者エリザベス・ビスランドとの競争を目論んでいましたが、ビズランドがこの競争を降りたため、『ワールド』紙は読者がブライの到着時間を予想する企画に切り替えました。ブライは、イギリス、フランス(アミアンでジュール・ヴェルヌに会った)、ブリンディジ、スエズ運河、コロンボ(セイロン)、ペナンやシンガポールの海峡植民地、香港、日本など世界各地を訪問しました。ホーボーケンを出発してから72日余りで、ブライはニューヨークに帰ってきました。彼女はほぼ一人旅で地球を一周しました。
1895年、31歳のブライは73歳の大富豪ロバート・シーマンと結婚し、夫の健康状態が悪化したため、ジャーナリズムから離れ、夫の後任としてミルク缶やボイラーなどのスチール容器を作る会社の代表となりました。実業家としてブライは、ミルク缶や積み上げ式ゴミ箱で米国特許をいずれもエリザベス・コクラン・シーマンの名前で取得している。一時は米国を代表する女性実業家でした。また経営者として健康手当やレクリエーション施設を充実させ、社会福祉のモデルとして会社を運営しました。
1913年、ブライは『ニューヨーク・イブニング・ジャーナル』紙のために婦人参政権運動を取材しました。彼女の記事「Suffragists Are Men’s Superiors」で彼女は、アメリカで女性に選挙権が与えられるのは1920年になると予測し、その通りになりました。
2002年9月14日女性ジャーナリストの記念切手の中の一人としてネリー・ブライが取り上げられました。