Seneca Falls Women’s Rights Convention
1948年7月19日セネカ・フォールズ会議から100年を記念して「女性の進歩100年」記念切手が発行されました。
セネカ・フォールズ会議は、最初の女性の権利に関する会議でした。それは「女性の社会的、市民的、宗教的条件と権利について議論する会議」として開催されました。ニューヨークのセネカフォールズのウェスリアン・チャペルで開かれ、1848年7月19日から20日にかけて2日間にわたって、開催されました。この大会は広く注目を集め、2週間後にニューヨーク州ロチェスターで開催された「ロチェスター女性の権利大会」など、他の女性の権利大会も開催されるようになりました。1850年には、マサチューセッツ州ウースターで、全国女性権利集会が初めて開催されました。この運動は1920年に女性に投票権を与える修正第19条の成立につながりました。
切手左側のエリザベス・キャディ・スタントン(1815‐1902)と右側のルクレティア・モット(1793‐1880)が中心になりこの大会を計画しました。モットはクエーカー教徒で、女性が人前で話すことを禁じられていた時代に、クエーカー教徒でない女性としては珍しく、弁が立つことで有名でした。二人はその1840年、女性であることを理由にロンドンでの世界奴隷制度反対会議への入場を拒否されたときに出会いました。
会議は、法律に関する講義、ユーモアを交えたプレゼンテーション、社会における女性の役割に関する複数の討論など、6つのセッションで構成されました。スタントンとクエーカー教徒の女性たちは、アメリカ独立宣言を土台にした「感情宣言」と「決議案リスト」という2つの文書を提出し、署名に至るまで議論と修正が行われました。女性の選挙権を決議に含むことについては、賛否両論があったが、大会唯一のアフリカ系アメリカ人参加者だったフレデリック・ダグラスは、この概念を含めるよう雄弁に主張し、参政権決議案は維持されることになりました。約300人の出席者のうち、女性を中心にちょうど100人がこの文書に署名しました。
この会議は、講演を行ったモットを含む同時代の人々にとっては、女性が社会的、市民的、道徳的権利を自ら獲得するための継続的な努力の中の重要な一歩であり、一方では、女性が男性と完全に平等になるための闘いの始まりとされています。スタントンはセネカフォールズ大会を女性の権利運動の始まりと考え、その意見はスタントンの共著である『女性参政権の歴史』にも反映されています。
切手中央のキャリー・チャップマン・キャット(1859-1947)は、1890年に創立された全米女性参政権協会の会長に就任し、1904年に創立された国際女性同盟と1920年に創立された婦人有権者同盟の創設者でした。女性に投票権を与えるための運動を積極的に指導し、1920年8月26日のアメリカ合衆国憲法修正第19条批准に貢献しました。