The Electric-Eye Perforator
1935年2月5日、米国郵政省は、新しいエレクトリックアイ目打機を使用して作成された最初の切手を発売しました。この新しい機械は、切手のセンタリングを確実にするのに役立ち、製品の廃棄が劇的に減少しました。これ以前は、印刷された紙の目打ちを目で所定の位置にあわせていました。その結果最大35%の穿孔不良が発生していました。
1930 年、機械の専門家であるヘンリー・ホルツクローがウェスタン・エレクトリック社の B.K.フォードに相談しました。フォードは「機械装置のエレクトリックアイの専門家」と評され、切手に目打をいれるために光電管を使用することを提案しました。
エレクトリックアイで入れた目打は今までの切手と目打ちのピッチも同じでした。ただし、切手を印刷するための版が変更されました。印刷用の版には、長さ3/8インチ、間隔 1/4インチの太い線があり、局はこれを「レジスタ・マーク」と呼んでいました。目打機の「電気の目」がこの「レジスタ・マーク」をスキャンし、紙を前後左右に動かし、ほぼ完璧なセンタリングを実現しました。
最初のエレクトリックアイ目打機には、これらのマーキングを監視するための 3 つの光電管がありました。印刷シート中央の余白のレジスタ・マークを監視するために、2 つのセルが配置されました。 3 番目の光電管は、印刷シートの右上部と右下部の余白に印刷された水平マーク「ガイド・ダッシュ」の上に配置されました。この光電管は、水平方向の目打を作成する針を適切に配置するために使用されました。また、紙が目打機を通過する速度も設定します。光電管とそれに対応するマークの位置の設定により、版番号が通常の位置から、シートの上または下から3列目の切手の位置に移動されました。
1933年の秋、印刷局はこの機械を使って最初の切手を製造しました。プレートの番号が21149と21150の2¢切手は、1933年10月13日に認定されました。試作は成功したと見なされ、印刷局の局長は郵政省に郵便局に次のように報告しました。「試験は満足できるものであり、さらに試行を続けるためには、べての印刷機に装備することの実現可能性を実証するために、1台のエレクトリックアイ目打機を実際の生産に配置する必要があります。」郵政省はこれに同意し、切手が製造されました。彼らは、マーキングが変更または廃止された場合にこれらの切手が希少になるのを防ぎたいと考えていたため、9,518,000 の切手が生産されました。1935年2月5日に切手が全国の62の郵便局でこの切手が発売されました。
印刷局は、「ガイド・ダッシュ」が太すぎて、インクがなかなか乾かないため、より速く乾燥するよう弱い線を使用して 2 つのプレートが作成されました (プレート21367および21368)。これらのプレートでは、縦の破線にも変化が見られました。以前のプレートのセットほど等間隔ではありませんでした。さらに新しいプレートが作成され、水平方向のガイドラインが細くなり、垂直方向のダッシュのサイズと間隔がより均一になりました。これらのプレートは、3つの異なるタイプに分類されます。1933年に生産されたプレートの最初のセットはタイプIa、2番目のセットはタイプIb、3番目のセットはタイプIで、これが標準となりました。
パイロット・モデルとして知られる新しいエレクトリックアイ目打機が 1937年後半に導入されました。この新しいマシンはすべての縦目打を制御し、より正確な水平制御を可能にしました。その結果、中央の1 本の水平線が右余白の19本のガイド・ダッシュに置き換えられました。されに新しい目打機が1939年に登場し、水平線がシートの左余白に移動しました。フレーム バーと呼ばれる追加の水平線が、左側のシート マージンに追加されました。この変更により、版番号はもとのシートの四隅の位置に戻されました。
エレクトリックアイは、わずか 3%の廃棄で 1日50,000~60,000シートを穿孔できました。印刷局は、大統領シリーズの導入前に、マーキングのさまざまな組み合わせをテストしました。エレクトリックアイの実用化はその後数十年にわたって印面のセンタリングを確保する標準的な方法となりました。