Benjamin Banneker
ベンジャミン・バネカー( 1731年11月9日 – 1806年10月9日)は、18世紀のアフリカ系アメリカ人の科学者、天文学者、数学者、発明家、農業改良家であり、植民地時代のアメリカで傑出した知識人の一人でした。奴隷制が広く行われていた当時、彼のような人物が科学分野で活躍し、その知識を駆使して様々な分野での業績を残したことは特筆に値します。彼の貢献は主に、天文学、暦の製作、土地測量、そして奴隷制廃止運動の啓蒙活動に見られます。
バネカーはメリーランド州のバルチモア郡に生まれました。自由な黒人女性であるメアリー・バネキーとギニア出身の解放奴隷であるロバートの子として生まれました。彼の祖母はバネカーに読み書きを教え、幼少期から好奇心旺盛で、独学でさまざまな分野の知識を深めました。特に数学や天文学に興味を示し、これが後の研究活動に繋がっていきました。
バネカーが最もよく知られている業績の一つが、天文学に基づいた暦の製作です。彼は星の動きや天体の位置を計算するため、独学で天文学を学びました。1789年には自分で天体観測を行い、そのデータを基に天体の動きを予測し、1792年から1802年にかけて『ベンジャミン・バネカーの年鑑』として知られる暦を出版しました。この年鑑には、月の満ち欠け、日食、気象情報、農業に関するアドバイス、その他の日常生活に役立つ情報が掲載され、当時の農民や商人たちに重宝されました。彼の年鑑は、白人社会からも高い評価を受け、アフリカ系アメリカ人が学問的分野で優れた才能を発揮できることを証明しました。
1791年、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.の設計が行われていた際、バネカーは調査団の一員として土地測量に携わることになりました。フランス人建築家ピエール・シャルル・ランファンがこの設計を指揮していましたが、途中で対立によりプロジェクトから去ってしまい、設計図を持ち去ってしまいました。その後、バネカーがランファンの設計図を記憶から再現したと言われており、彼の記憶力と数学的な洞察力がいかに優れていたかがうかがえます。この功績によって、バネカーはアメリカの都市計画の発展に寄与したとされています。
バネカーは自らの成功をアフリカ系アメリカ人の地位向上に活かしたいと考え、奴隷制の不条理さを訴える活動にも積極的に参加しました。1791年には、アメリカ独立宣言の起草者であり、第3代アメリカ合衆国大統領でもあったトーマス・ジェファーソンに手紙を書き送り、奴隷制の廃止を訴えました。彼はこの手紙の中で、すべての人間が平等であるというアメリカ独立宣言の理念を引用し、奴隷制がこの理念に反していることを強調しました。ジェファーソンからは回答がありましたが、奴隷制の即時廃止には至りませんでした。それでも、このやりとりは当時の社会に大きな反響を呼び、奴隷制問題に対する関心を喚起する一助となりました。
バネカーは1806年に死去しましたが、その遺産は後世にわたって語り継がれています。彼の自宅は死後に火事で焼失してしまいましたが、彼の暦や天文学に関するノートが一部残されており、これらは現在でもアメリカにおける科学と人権の分野で貴重な歴史資料とされています。また、彼の功績を称え、アメリカ各地で記念碑や教育施設が建設され、彼の名は多くの黒人学生たちにとって希望の象徴となっています。
バネカーの生涯は、奴隷制が支配的であった時代において、黒人が知的な能力を持ち、社会に貢献できる存在であることを示しました。彼は科学者としての活動だけでなく、人権活動家としてもその名を刻み、当時の黒人社会だけでなく、白人社会にも影響を与えました。彼の科学的功績は、黒人の地位向上を目指す多くの活動家にとっても励みとなり、アメリカにおける黒人の歴史や公民権運動においても重要な存在とされています。