Boris Karloff
ボリス・カーロフ(Boris Karloff, 1887年11月23日 – 1969年2月2日)
ボリス・カーロフは、20世紀前半に活躍したイギリス出身の俳優で、特にホラー映画の象徴的な存在として知られています。1930年代のユニバーサル・スタジオによるホラー映画ブームにおいて、「フランケンシュタインの怪物」を演じたことで、映画史に名を刻みました。彼の繊細で人間味あふれる怪物の演技は、単なる恐怖を超えて観客の共感を呼び、キャリアを通じて幅広い役柄を演じることにも成功しました。
1. 生い立ちと初期のキャリア
ボリス・カーロフは、本名をウィリアム・ヘンリー・プラット(William Henry Pratt)といい、1887年11月23日にイギリスのロンドンで生まれました。彼は7人兄弟の末っ子で、父親は外交官を務める家庭で育ちました。家族は法律や公務員の道を期待していましたが、カーロフは舞台俳優を志し、1909年にカナダへ渡り俳優活動を始めました。
舞台での活動を経て映画に進出しましたが、初期のキャリアは無名時代が続きました。当時、彼はエキゾチックで謎めいた印象を強調するために「ボリス・カーロフ」という芸名を採用したとされています。
2. フランケンシュタインの成功
カーロフの大きな転機となったのは、1931年にユニバーサル・スタジオ製作の映画『フランケンシュタイン』(監督:ジェームズ・ホエール)で怪物役を演じたことです。この役は当初ベラ・ルゴシが演じる予定でしたが辞退したため、無名に近かったカーロフに白羽の矢が立ちました。
(1) 演技とメイク
カーロフの怪物は、メイクアップアーティストのジャック・ピアースによる革新的な特殊メイクと、カーロフ自身の身体表現が融合した結果、単なる恐怖の象徴ではなく、悲劇的で人間味のあるキャラクターとなりました。言葉を発しない怪物の役柄をカーロフは表情と動作で表現し、その繊細さと悲哀が観客の心を打ちました。
(2) 影響と成功
『フランケンシュタイン』の成功により、カーロフは一夜にしてスターとなりました。この映画は大ヒットを記録し、カーロフはその後のユニバーサル・ホラー映画の中心的存在として、続編である『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)や『フランケンシュタインの復活』(1939年)にも出演しました。
3. ホラー映画の象徴として
カーロフは『フランケンシュタイン』以降も数多くのホラー映画に出演しました。彼の代表的な作品には以下のようなものがあります:
- 『ミイラ再生』(1932年):エジプトのミイラ、イムホテプ役を演じ、静かな恐怖と威厳を体現しました。
- 『黒猫』(1934年):エドガー・アラン・ポーの作品を基にした映画で、ベラ・ルゴシと共演。心理的な恐怖を描きました。
- 『狂気の使者』(1935年):医者役を演じ、倫理的葛藤をテーマにしたホラー映画です。
ホラー映画のジャンルにおいて、彼は単なる恐怖を与えるだけではなく、登場人物に深みを持たせることで映画の質を高めました。
4. 多彩なキャリアとその後
カーロフはホラー映画で成功した後も、幅広い役柄を演じ続けました。演劇やテレビにも進出し、特にブロードウェイの舞台『アーネスト・フォーマンの名誉』(1941年)で成功を収めました。また、彼は声優としても活躍し、『グリンチのクリスマス』(1966年)ではナレーターとして出演し、アニメーション作品にも独特の存在感を残しました。
5. カーロフの人間性と影響
映画で恐ろしい役柄を演じる一方で、カーロフ自身は穏やかで親しみやすい人柄で知られていました。彼は同業者やファンからも愛され、晩年には俳優としての貢献が広く評価されました。彼の演技は、ホラー映画のジャンルに新たな基準をもたらし、多くの後進の俳優に影響を与えました。
6. 遺産
ボリス・カーロフは、ホラー映画における「怪物」の表現を芸術の域に高めた俳優として、映画史において特別な位置を占めています。特に『フランケンシュタイン』での怪物の演技は、単なる恐怖の対象ではなく、同情と共感を引き出すキャラクターとして描かれました。このアプローチは、後のホラー映画における怪物像に大きな影響を与えました。
1969年2月2日、カーロフは81歳で亡くなりましたが、彼の映画は現在でも視聴され続け、彼が築いたホラー映画の基盤は多くのクリエイターに受け継がれています。また、彼の名前はホラー映画の黄金時代を象徴する存在として、ファンや映画史研究者に広く記憶されています。